ビリー・ジョエル『SONGS IN THE ATTIC』
81年の発表の初期4作から選曲された、'80年6〜7月全米ツアーを収録したライヴ・アルバム。
ビリー・ジョエル『PIANO MAN』
73年発表の2ndアルバム。50万枚を越すゴールド・レコードとなりキャッシュ・ボックス誌での新人賞を獲得。
ビリー・ジョエル『THE STRANGER』
フィル・ラモーンをプロデューサーに迎えた77年の5thアルバム。このアルバムに収録した“素顔のままで”は、翌年78年の第21回グラミー賞に於いてRecord Of The Year(最優秀レコード)とSong Of The Year(最優秀楽曲賞)を受賞
ビリー・ジョエル『52nd STREET』
78年の6thアルバム。初の全米No.1ヒットとなり、第22回グラミー賞でもAlbum Of The Year(最優秀アルバム)、Best Rock Male Vocal Performance(最優秀男性歌手賞)を受賞。79年Billboardアルバム年間チャート第1位。
SING LIKE TALKING
『DANCIN' WITH YOUR LIES』
SING LIKE TALKING
『CITY ON MY MIND』
SING LIKE TALKING
『TRY AND TRY AGAIN』
 
 
■「音楽との出会い」編 Page2/2
――バンドを組んだのは中学生でベースを始めてからすぐですか?
佐藤:うん。友達と組んで、それこそ何でもやってましたよ。NSP、かぐや姫、GRAND FUNK RAILROAD、DEEP PURPLEとかいろんな曲をコピーしていました(笑)。
それから高校2年の終わりか3年の始めで、初めて自分で人前で歌いたいなと思ったんですね。
――そのキッカケになったアーティストは?
佐藤:いや、アーティストがキッカケというよりも、単純にヴォーカリストの先輩の横でベースを弾いていて、その人が歌っている姿がすごくいいなぁと思って。自分も好きで家で歌っていたので、ちょっとやってみようかなと。
あと、ベースでチョッパー奏法っていうのが出てきて、「あ、これは弾けないな」と。「練習する気力もそんなにないな」と思ったし、演奏とかアンサンブルよりも、まずはメロディや曲が好きだっていうのがどんどん自分の中で膨らんでいったんだと思うんですよ。
――そしてヴォーカリストとしてその後にバンドを組んだんですね。
佐藤:その後、大学に入る前にプロになりたいと思ったんです。それはクリスマス・イブのときにおふくろがプレゼントとしてビリー・ジョエルの『SONGS IN THE ATTIC』っていうライヴ・アルバムを買ってくれて、それに衝撃を受けてね。なぜかプロになろうと思っちゃったんですよね(笑)。
――アルバムの中で特に気に入った曲は覚えていますか?
佐藤:曲が持っている空気感が非常にインパクトがあるので、全部好きですね。ビリー・ジョエルが『PIANOMAN』でゴールド・レコードをとったんですが、その後は低迷するんですよ。
スタジオミュージシャンを使ったアルバムのレコーディング状態がどうしても気に入らなかったらしいんですね。その後彼が『THE STRANGER』でガンと売れたんですけど、そのときにやっと自分のパーソナルな理想的なバンドを組んだときに、納得のいかなかった曲たちにもう一回命を吹き込むためにやったライヴを収録したのが『SONGS IN THE ATTIC』なんですよ。『THE STRANGER』や『52nd STREET』を発表したの後なのに、その前のアルバムからの曲しか演ってなかったんです。それがオリジナルと聴き比べても、パワーや表現力が何倍も違うんですよ。
僕も文化祭とかにいろいろ出ていましたけど、このアルバムを聴いたときに「こんな次元があるんだ」と思って、プロになりたいと思ったんです。
――ビリー・ジョエルを聴いたのが、プロを目指したキッカケというのは面白いですね。
佐藤:そうそう、しかも何の裏付けもないところがすごいですよね(笑)。曲も書いたことがないし、バンドでもオリジナルを本格的にやったことがないんですけど、なぜかプロになれると思ったんですよね(笑)。
それで、他で自分のバンドを組んでいた(藤田)千章に詞を書いてもらって僕が曲作りたいと……書いたことないんだけど(笑)。でもそういう形でやってみたいと思ったんですよ。あいつがポプコン(ポピュラー・ソング・コンテスト)とかに出ていたのを観て詞がすごくいいと思っていたので、彼を口説き落として大学へ入りがてら東京で2人から始めたんです。

――そのころから千章さんの詞のセンスはすごかったんですね。
佐藤:そうですね、バンマスでヴォーカルもギターもやっていたんですけど、僕が一番惹かれたのは彼の詞だったんです。
――そこから曲を作り始めたんですか?
佐藤:うん、大学に入ってから書き始めたんですけど、自分はベースをやってたでしょ? フォーク・ギターも弾いていましたけど、結局フォーク・ソングはD、C、G7くらいをチョロチョロっと弾くくらいだったんですよ。でも、書きたかった曲の理想は、当時AORに出会っちゃったもんで、ボビー・コールドウェルとかマイケル・マクドナルド、ボズ・スキャッグズ、TOTOの曲に非常に傾倒していて。でもそういう曲をいくら書いてもああはならないじゃないですか(笑)。だから、そこからまずはコードよりも音楽を知ることだと思って、タワーレコードに毎日のように通って買いあさってましたね。自分の中に良い音楽を吸収しなきゃと思ってひたすら聴く作業から始めて、曲を作り始めたのは、その1年後くらいですよ。それでもやっぱりギターは無理だなと再確認して、大学3年くらいからキーボードを始めたんです。
――キーボードを始めたのは遅かったんですね。
佐藤:そう(笑)。特にAOR系の曲はキーボードから生まれる和音構成で成り立っているものが多いので、なおさらキーボードをやりたかったんだと思います。
――キーボードは何を買ったんですか?
佐藤:DX7。出たばかりのころですね。あれをかついでスタジオに行きましたもんね(笑)。今となっては大変なことですよね(笑)。
――(笑)。最初に作った曲は覚えていますか?
佐藤:一番初めはデビュー曲の「DANCIN' WITH YOUR LIES」(88年1stシングル)と、「CITY ON MY MIND」(89年3rdシングル)ですね。これは19歳のときに書いた曲です。何回も何回もやり直して、和音も単純なものに替えていって、最終的に完成したのは大学4年くらいのときかな。なぜかほかに書いた曲は消えていったんですけど(笑)、この2曲だけずっと捨てきれなくて残っていったんですよね。そしてキーボードを買って初めて書いた曲が1stアルバム『TRY AND TRY AGAIN』(88年)に入っている「君がいなければ」っていう曲。これは右手がほとんどド・ミ・ソとシ♭・レ・ファでしか構成してないんですよ(笑)。
――そうなんですか(笑)!?
佐藤:その2つしかないんですよ(笑)。要するにルートが変わっていくからコード展開があるんですけどね。そのときに発見したのは、ギターってポジションごとに毎回コードが変わっていくでしょ、でもキーボードは右手が同じでも左手のルートが1つ変わるだけで世界がこんなに広がるんだっていうのが分かって、そういう感激のままに書いた曲なんです(笑)。■
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  奈良県香芝市 b.bさん
  大阪府大阪市 ぴんぐぅさん
  埼玉県富士見市 なまけたろうさん
ALL TEXT:MANABU IGETA
SPECIAL THANKS:
TAKAMASA OHWADA(C.I.A)
KAZUMASA TAKASE(UNIVERSAL MUSIC)
BMG FUNHOUSE